初めての全日本選手権
全日本でトップのレベルを知る 

1/12電動レーシングカーの全日本選手権(JMRCA主催)には2回出ていますが、まず最初は1983年(昭和58年)のことでした。

新潟のローカルでR/Cカーを楽しんでいた私ですが、時代は私にも全日本に挑戦するチャンスを与えてくれました。

この頃のR/Cカー事情

ではこの頃のラジコンカーの世界、そして全日本選手権の背景を簡単に記述します。

・8分間レースが当たり前になっていました。・・・それまでのレースといえば、コースを何十周か回ってタイムを競うというパターンが主流でした。決勝は概ね3〜4分程度だったでしょうか。一方1982年頃より海外から移入してきた8分レースは、最初は到底一本のバッテリーでは走りきれない長さと思えましたが、充電の工夫やモーターの改良などで、冒険さえしなければ十分走りきれる状況になりました。

・3Pサスカーや4WD車の登場で、レースがよりハイレベルに、シビアになりました。・・・以前より海外製品を中心にサスペンションを持った車は存在していましたが、それまで全日本を制していたAYKを含め国産車はリジッド2駈がほとんどでした。しかしこの年(58年)の春に京商からファントムEP−4WD、無限精機からは複雑なサスペンションを持ったK2−Xスピリットが登場するなどで、一気に世代交代は進んで行きます。

・全日本選手権が一大イベントになりました。・・・それまでも全日本選手権は開かれていましたが、地方の人間にとっては「関東・関西の人達のための大きなレース」だったような気がします。しかしこの年からは全国を10ヵ所に分けた予選大会が開かれ、ここで勝ち残った代表者が本選に進むというスタイルに変わり、地方からこぞって選手が参加するようになりました。この年の参加者は全国で7000名あまりだったとか。また、大会の期間も二日間となっています。

その頃の新潟は、問屋さんなどの力で全長300mの公認コースができ、ラジコンはますます盛んになっていました。もともとはエンジンカーを走らせるためのものでしたが、電動の方でも頻繁にレースが行われていました。メーカーも「有望な市場」と意識してくれたのか、京商の岸、中西さん、あるいはラジコン界の神様、あの石原直樹さんなどが良く出かけて来てくれていました。

またホイラータイプのプロポとしては初めて製品化されたKO−EX1を、発売前に石原選手が持ちこんで来たのを見て驚嘆したのもこの頃です。

全日本選手権は、全国を10のブロックに分けて選抜します。関東、関西、中京、北海道、東北、北陸、中国、四国、九州、新潟、となるわけですが、これって何か変ですよね? 北海道は地理的にわかるとしても、どうして新潟だけが一つのブロックになっているのか? 普通なら北陸か甲信越に統合されてしまうところ、一つの県だけで予選を行う許可を得られたのは、日頃からこのように積極的なレース活動を行っていたり、エンジンの人達が良く関東に遠征に行っていたからなんでしょう。

レースレポート

さて、全日本の本選は8月の末に行われました。持ちこんだ車は京商のファントムEP−4WDです、シャーシはほぼ標準ですが、サーボはサーボセイバーホーンでダイレクトにつなぐよう、改変しています。

●持ってきたモーター、予選前に二つとも壊した。

夜中に出発して朝早く会場に着いたのですが、仮眠するには気持ちが高ぶり、また何となく暇なので、まだコースができていない会場で試験走行。ところが路面には細かい石や砂が乗っており、気がついたときには虎の子の本番用モーター(ルマン480S)二つはコミュテーターがぼろぼろになり、使い物にならない状態になっていました(ただのバカ)。

困って京商のピットに泣きついたところ、親切にもルマン480T(Sよりやや電池が持つトルク型のタイプ)を分けれくれました。結局このモーターを使って準決勝まで5回走るわけですが、軽量に仕上げている私の車はルマン480Sでも十分電池は持つので、480Tならなおさら余裕です。

予選の最初はぼろぼろ。

予選が始まりました。正直言って周りにはまったくついていけません回りでは早くも31周が出た、32周も出たなどと言っているのにこちらは28周あたりでうろうろしています。「やっぱりレベルが違う」とも思いましたが、車自体は決して遅くありません。要は走り方なんです。

●だんだん見えてきました。

上手な人達は、まず第一コーナーへの入りが違います。新潟でレースをやっていますと、@われさきに第一コーナーに突っ込む→A小さな爆発(多重クラッシュ)が起きる→B運良く生き残った車が次のコーナーを目指す、といったパターンがほとんどでした。

ところが全日本に出る人達の走りは、@第一コーナーまでは競い合う→Aコーナー直前で突然一列に→Bそのまま順番にコーナーを通過するのです。考えて見れば8分間レースの予選で競う相手は目の前のライバルではなく、時計です。無理をして、くだらないクラッシュでタイムロスをするメリットは全くないのです。

また、コーナーは突っ込み過ぎず、どちらかと言えば加速でタイムを稼ぐ走り方なども、新鮮なものでした。このようなワークス達の走り方を真似ながら、自分の走りを変えて行ったところ周回数も上がっていき、予選はなんと13位。楽々準決勝に進むことができました。

右は八重洲出版 ラジコンマガジン1983/10月号からのもの、「ビックネーム」の間に私の名前が見えます(なぜか私は名字だけ。確かに”無名”ではありますが・・)

●準決勝は約5秒届かず、で決勝ならず。

準決勝に残ったのは110名中30名、この30名で2回走って8名の決勝進出者を決めていきます。私はせいいっぱい走りましたが15位で終了。タイムは32周8分03秒でした。決勝進出のボーダーラインは33周8分16秒ですので、約5秒早く走れば残れた計算です。だがこの5秒はとても超えられない大きな壁でした。

初めての全日本で得るものは多くありました。自分の走りが国内最高の大会で通用したという嬉しさも、もちろんありました。またトップの走りを見たことで、超えられない部分の大きさを知りました。

少なくとも一つの世界に足を踏み入れた時、トップと言われる人達のレベルと自分が今いるレベルを同じものさしで比較できたことが、最大の収穫でした。