初めてのプラモデル

”電動士”が初めてプラモデルなるものを見たのは、おそらく昭和34年頃、5歳の時です。父親がちょっと入院していた時、暇つぶしに病室で零式戦闘機(確か52型)を組み立てたものを見て、妙に気に入ってしまいました。退院後「要するに戦闘機とは何か?」と聞いたところ、予科連だった父親は、色々マンガを書きながら説明してくれました。

私がはじめて所有したプラモデルは、後ほど紹介する「ニチモのイ号潜水艦」です。記録(絵日記)によると、購入日は昭和36年8月17日(1961年)、小学校2年の夏でした。ただしこのプラモはとうてい自分でできるものではなく、親父に作ってもらいました。

自分で手がけたプラモは、ニチモの「ダグラス DC−8C」、続いて(おそらく)マルサンの1/100ロッキードP−38やゼロ戦(メーカー不明)とコレクションは増えていきました。

以下の二つの作文は、私が小学校2年の時に書いたものです。原文のままなので、お見苦しい点はご容赦ください。

 

小学校2年の時に書いた作文−1・・(昭和37年正月:原文のまま )

 プラモデル

元日の朝 おとうさんと おかあさんに お年玉を もらいました。
 「ぼくは お年玉を もらったので なにか かおうかな。」
といって、 つぎの日 おとうさんたちと 町へ 出かけました。

 けれど なにを かったらいいか まよいました。
 あちらこちら さがしました。
 おとうさんは。
「ゲームを かえば。」
と いいました。
 おかあさんは、
「そんなに わからなければ、あしたにしらたどう。」
といいましたが ばくは はじめに思っていた プラモデルに しました。

 かったのは ダグラス DC−8Cという ジェットりょかっきで じつぶつは
はばが 四十三メートル
長さが 四十五メートル
じょうきゃく 百五十人のり
早さ  一時間に 千キロメートル

であると おとうさんが せつめいづを 読んで くれました。

ロケットエンジンが 四つ ついています。
 うちへかえってから おとうさんは すぐ 作り方を 見て ぼくに
「やすりと せんまいとおしを もってきて。」
と いいました。

 つくるまえに ざいりょうが みんな あるか しらべて 作りはじめました。
 はじめは やすりで バリを とり きれいにします。
そのざいりょうを くみあわしてから セメダインを つけます。
作るとき おとうさんは
「セメダインを つかいすぎると すっぐなくなったり はみでたりして きたなくしあがるよ。」
といって やりはじめましたので ぼくも そのとおり やりましたが なかなか うまく いきません。
ジェットエンジンの 半分と 半分を くっつけるとき ずれたりしました。

 できあがってみると おとうさんの 作ったほうが やっぱり じょうずでした。
 ぼくは プラモデルが すっかり すきになりました。

 つぎの日 お年玉の のこりは ちょきんにまわしました。
その中から 五十円をもって おとうさんと さんぽに いきました。
めいてんかいかんで 四十円つかって ほかのところに 行きました。

 中まちどおりから えきまえどおりへ行くかどのへんで おとうさんが
「またプラモデルをかおうか。」
と いったので ぼくは びっくりして
「たった十円で。」
とききました。
おとうさんは
「おとうさんが かってあげる。」
といって かいに 行きました。

こんどは二きかいました。ゼロせんと ロッキードP−三十八です。
うちへかえって つくるとき はじめに ロッキードのほうから 作りました。
ロッキードは ダグラスよりかんたんでした。ゼロせんは むずかしいので おとうさんにやってもらいました。
プロペラは まわり 車も うごきます。とてもよいのが できました。

おかあさんは ダグラスが 一ばんいいといいました。そのわけは おかあさんはせんそうがきらいで、ダグラスはせんとうきじゃないから いいのと スマートなこと そして うつくしさがあるからだそうです。
 おとうさんはゼロせんです。
ぼくも ゼロせんです。 

 ぼくは ゼロせんのほうが いいので おかあさんに
「ゼロせんのほうがいいよ。」
といいましたが
 おかあさんは
「ダグラスがいい」
といいます。
 ぼくは しゃくにさわって
「ゼロせんのほうがいいよ ゼロせんのほうがいいよ。」
と うるさくいうので おかあさんは 一かいだけ
「ゼロせんがいい。」
といいましたが、また
「ダグラスがいい」
といいます。

おとうさんが ゼロせんと P−三十八にしたのは 日本と アメリカと せんそうをしたとき どっちも かつやくした ゆうめいな せんとうきだったからです。
 ぼくのうちには いまのより 小さい ゼロせんの プラモデルが 一つと イごうせんすいかんが あるので これで 五つになりました。

 ぼくは もっと プラモデルを あつめたいと 思います。
 三年生になったら モーターつきの プラモデルを つくってみたいとも 思います。

小学校2年の時に書いた作文−2・・(昭和37年3月:原文のまま )

モーターつきプラモデル 

ほんとうは 三年生に なったら モーターの はいった プラモデルを かうつもりでいましたが 二年生のうちに かってもらいました。
 かうずっと前 おとうさんが 
「モーターで プロペラが まわって うごくプラモデルがあるよ。」
と いっていました。

 ある日よう日 三人で 町へ 出かけました。
 おかあさんは おかずのかいものへ ぼくと おとうさんは さんぽに 行って わかれました。
 あるきながら おとうさんが
「また プラモデルかおうよ。」
と いったので ぼくは
「かう。」
といい もけいやさんに いそぎました。

 もけいやさんには いろいろなもけいがありました。
汽車には えきも がいとうも せんろも きりかえせんろも あって ほんものそっくりです。
おとうさんが
「はやくきめなさい。」
と いいました。

ぼくは
「あれにしようか これにしようか。」
と まよっていると おとうさんが
「モーターがついて 走るのは このことだよ。」
と モーターつきプラモデルを ゆびさして いいました。

そしておとうさんが
「このゼロせんかってあげようか。」
と いったので ぼくは うれしくなって、
「かう。」
と いい それと モーターと でんちを かいました。

 うちへかえるとちゅう ぼくは うれしくてたまりませんでした。
かえってくると おかあさんが げんかんで 見ていて
「こわれものを かかえてもってくる みたいだったよ。」
と いいました。

 ぼくは うれしくてたまらないので うちへかえってすぐあけてみました。
 中のざいりょうは あつくて じょうぶそうでした。
モーターを まわしてみると ブイーンと ものすごい 音で まわりました。
モーターを まわすとき はじめ のほうを せんに つけます。それから のほうを せんにつけると まわります。

 ぼくは モーターのしかけが 知りたいとおもい あくる日 ねじまわしを つかって あけましたが 中は 見えませんでした。
 その夜 ぼくが ねてから おとうさんが 作りながら でんちと モーターでプロペラを まわして見ようと 思っていて やってみると でんちがなくなっていて まわりませんでした。
 おとうさんは モーターが こわれたのか でんちが だめなのかと 十二じまで かかっても わかりませんでした。

 つぎの日 ぼくが やったら でんちがないのが わかりました。
 それは まわらなかったでんちと まえからあったでんちを もってきて くらべてみたら まえからあったでんちがまわります。
 それは モーターを とりつけるまえに モーターを ブルブルまわしていたから そのときつかいはたしてしまったので まわらないんだと 思います。

 ぼくは そのことをすぐ おかあさんに いいました。
 おとうさんが かえってきたら おとうさんにも いいました。
 おとうさんは
「よくそのことを 見つけたね。」
と ぼくを ほめました。
そしてぼくに お金をくれて
「これで でんちを かいなさい。」
といって かいしゃに 出かけました。
そのでんちは 二日くらいもちました。

そしていく日かたった 日よう日に てつじおじさんと おばさんが来て 正月じゃないのに お金を 二百円 もらいました。
 そのお金の 二十五円を もって でんきやさんへ でんちを かいにいきました。
 かいに行ったら おまけを いただいてしまいました。
 そのおまけが えんぴつ四本 キャップ六こももらったので おかあさんたちが
「でんちよりおまけのほうが たかいようだね。」
と いいました。
すぐでんちを 入れて見たら ブーンとよく走りました。
 そのでんちは 長くもち 三日ぐらい もちました。

 ぼくは ひまならすぐ このプラモデルを いじります。
 ぼくは プラモデルが 大すきです。

先生の評

二つの稚拙な作文を読んでいただき、ありがとうございました。

この作文(正月に書いた方)に対して、担任の先生は右のような評を書いてくださいました。

「きみは すばらしい ぶんが かけるようになる。いっしょうけんめい がんばりなさい。

ははー、先生。 現在私はこのようなホームページを開いて、いっしょうけんめいがんばっております。 

 

だが、文体は今も全く変わっていない・・・。